2020年8月18日火曜日

カワウソ

 駄菓子屋である。

 ”正面を見つめて立つ”少女とカワウソである。



2020年8月15日土曜日

敗戦の日

8月。この時期になると思い出す情景の一つに父の姿がある。

学校の教諭をしていた父は、夏休みになると”零戦”や”大和”の模型作りに熱中していた。完成した模型を眺めながら「零戦に乗りたかった」「予科練に受かっていれば」と呟くのを幾度か聞いた記憶があるが、当時の私はその言葉の意味を解することなく、父がいつも家にいる夏休みをほんの少し、嬉しく思ったぐらいのものだった。


20歳で敗戦を迎えた父とその家族(祖父、祖母、父、叔父、叔母たち6人)は、祖父の故郷である岐阜県の飛騨へ疎開するまで、東京の荏原区(現在の品川区)で生活していた。(5月の空襲でその家も焼失している)

長男だった父は、16歳で恵比寿の海軍技術研究所に勤めることになる。そして翌年、海軍飛行予科練習生に志願するが、体重が足らず不合格となる。

父の年齢と日本の歩みを重ねてみると、満州事変が6歳の時、2・26事件が11歳、翌12歳で盧溝橋事件があり、同年日中戦争が始まる。そして16歳で太平洋戦争開戦、20歳で敗戦といった具合で、父は敗戦までの少年期~青年期のもっとも多感な時期を軍国主義の下で育ったことになる。それが若者にどのような影響を与えたのか、今となっては想像することしかできないが、それ以上に注視したいのが敗戦後日本が民主主義によって180度方向転換した現実を、そんな若者たちはどう受け入れていったのかということである。


落語家、川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)の噺に「ガーコン」というネタがある。開戦直後の軍歌はメジャー調だったものが、負け戦が続くとマイナー調に暗くなっていく、ギャグを入れつつ歌いつつ、やがて日本は敗戦した途端に”ひっくり返り”軍歌は禁止、ジャズばかりが流れるようになったというものである。川柳川柳は敗戦を14歳で迎えている。父より6歳年下の川柳でさえ”ひっくり返り”にどれほどの違和感を感じたのか、この噺の内容からも想像できるというものである。

戦後、東京裁判を終えた大人達は、自らの過ちを省みることも出来ぬまま、何の説明もされない若者たちはただただ置き去りにされたようなものではなかったろうか。純粋であればあるほどに、正体の知れない喪失感に苛まれ、苦しんだのではないだろうか。当時の父の日記を捲ると「日本は軍国主義から民主主義の国に変わったのだ、我々も生まれ変わったのだ」と”新しい時代”を称賛しているかのように見える。頭ではそう理解していたことだろう、日記なのだから尚更だとも思うが、しかし一方で戦時中に抱いた憧れを持ち続けて生きてきたことも事実である。

”ひっくり返り”のジレンマから逃れるために、多くの若者たちは戦後復興から経済成長に没頭し、がむしゃらに生きることで過去を忘れたふりをしたかったのかもしれない。


かつて、父を遠くからぼんやり見ていた私も、今では十分に年を重ねた大人であり、今のこの国の有様を作り上げた一人であるわけだ。

そんな一人として自省を込め、少しでも若い人の未来の指針になるものを残したいと思う。



2020年5月13日水曜日

文学が語る言葉とは


昨日TVで放映された多和田葉子さんのインタビューを一部文字起こし。


今、文学が語る言葉とは
コロナウイルスに関しては自然科学がすごく重要じゃないですか、
でも、自然科学というのは個々のファクトについてしか語ることができないんですよね。
私たちはそこから「自分がどういういうふうに生きていきたいのか」を引き出すことはできないじゃないですか。そういういくつもの事実を紡ぎ合わせて一つの物語を作っていく。
でも、そのときにフェイクになってはいけない。これがね、一言では説明できない、非常に難しい問題だと思うんですけど、それを承知の上ではっきり言ってしまうと”フェイクではなくてフィクションを作る”これは人間が絶対必要とするものだと思う。
もし文学、良いフィクションがなければ、人は変なフィクションに、フィクションとも言えないような変な物語に、みんな踊らされてしまう。または、みんな騙されてしまう。

2020年3月11日水曜日

カワウソ

現在制作中の短編アニメーション "カワウソ" 。 長い時間をかけて制作しているが、これがどの様な形で終わるのか、自分にも未だに分かっていない。ただ言い方を変えれば非常に贅沢な時間の使い方をした仕事であり、現状を受け入れつつ、これをコツコツと作り続けるしかないと思っている。
今日は9年目の日。あれからこの国はどれほど変われたのだろうか。


2020年1月3日金曜日

2020年



昨年から年賀状は出さないことにしているが、それでも幾らか送られてくるものなので、メールの返信用にこれを作ってみた。鼠の絵は若冲の絵の一部をイラレで自動トレースしたもの。若冲は見て描く”写生”画家としての側面がよく知られているが、このような可愛らしい絵も描いている。下が元絵。(伊藤若冲:鼠婚礼図)


さて、今年はどんな年になるのだろうか。社会はこのままズルズルと劣化していくようにしか思えないのだが、社会が劣悪な状況になればなるほど、傑作と呼ばれる芸術作品もまた生まれている様にも見える。そこに芸術本来の役割があるのであれば、表現者はめげることなく、未来を見据えてその役割を全うすべきだろう。
と言うか、そう思わなくてはもうやってられない。

2019年8月15日木曜日

平和の少女像


現在制作中のアニメーション「カワウソ」の一部です。この少女を通して物語が進行していきます。すでに4年も制作しているのに完成にはまだまだ遠く、鉛筆で描くという不慣れな方法を選んでしまったことを後悔し、そして自分の画力の無さを日々痛感し泣いています。バロンくんごめんなさい。
ところで、なぜ「カワウソ」で少女を描くのか、自分でもよくわかっていませんでしたが、おそらくこれが自分にとっての”平和の少女像”になるのだと思います。
ニホンカワウソが絶滅していく過程は、日本が明治以降、近代国家として戦後の高度成長期までを歩んだ歴史と重なります。その陰で数々の戦争があり、失った環境と命があり、滅びた種がありました。
その失われた象徴としてカワウソを描き、それを見つめる少女の目が、わたしたちが過去の歴史に向き合うための視座になるのかも知れないと思っています。何れにせよ、自国の歴史と向き合い議論する事もできないようでは他者への寛容さなど生まれないでしょうし、多様性を受け入れることも育てることも満足にはできないでしょう。

さて、今日8月15日は日本では敗戦の日であり、韓国では光復節、35年に渡る日本植民地からの解放の日でした。隣人との間で深めるのは憎悪ではなく、教養と理解でありたいものです。


2019年7月17日水曜日

「誰が星の王子さまを殺したのか」

先日、83歳になる母親に”れいわ新撰組”の街頭演説を見せたところ「みんないいこと言うねえ、テレビで放送すればいいのにねえ」と。しかしそれは21日が終わるまでは無いだろう。
写真はそんな”れいわ新撰組”から立候補している安冨あゆみさんの著書「誰が星の王子さまを殺したのか」。サン=テグジュペリの「星の王子さま」を安冨流に解釈したユニークな本だが、名言とされる「大切なものは目には見えない」を真理でもなんでも無い危険な言葉と言い放ち、キツネの言う「飼いならす」はセカンドハラスメントと断言するあたり、この物語の印象が145度ほど変わってしまう、なかなか興味深い本である。



「星の王子さま」に限らず、私たちは難解な作品に出会った時、批評家や多くの人の意見を参考に読み解こうとするが、いつの間にやらそこにある他者の言葉を理解することに終始し、それでわかったつもりになってることも少なく無いのかも知れない。果たして自分の判断は自分のものであったろうか、こんな本を前にするとそんなことを考えてしまうものである。

私たちが”政治”に対して持つイメージも、多くの既存の言葉に置き換えている部分が強いのかもしれない。だとすれば、今回の参院選が非常に面白いと感じるのは、そんな既存のイメージを払拭する選挙活動をする候補者がいるからだろう。安冨さんもその一人だが、彼らに共通しているのは単に政策を訴えるだけでなく、私たち一人一人に向けて意識改革を促し、議席を取ること以上に各々の意見を広めることを目的にしていること。
この選挙の結果がどうあれ、今後様々な形で彼らが影響を残すことを期待したい。

カワウソ

 駄菓子屋である。  ”正面を見つめて立つ”少女とカワウソである。