2020年10月9日金曜日

福島とフクシマ

9月19日に福島県双葉郡を訪れた。3.11の原発事故以降、現在も約7万人の避難者を出しているこの地域が9年経った今、どうなっているのか、ただ、自分の目で見ておきたいという想いからだった。

郡山市に住む友人W氏宅から、彼の車で288号線を東へ向かう。朝からどんよりとした曇り空の下、ありふれた田舎町の風景の中を車は進んでいく。しばらくして大熊町へ入った辺りから「帰還困難区域につき通行制限中」の看板が目立つようになり、さらに進めば山間の空き地に積まれた黒いフレコンパックをちらりほらりと見かけるようになる。車を降り、空間線量を測ると0.21μSv/h。W氏宅の数値の約3倍である。



浪江町

288号線は双葉町に入った辺りでバリケードによって通行止めになっていたため直進できず、35号線を北上し浪江町に入る。さらに35号線を右折し114号に入り東へ進んでいくと街は急変し一気に賑わいを見せるようになる。浪江町は2017年に一部の地域が避難解除されており、浪江町役場前の”道の駅”には多くの車が停車し、(土曜日ということもあるのだろう)そこはたくさんの家族連れで溢れていた。数十分前には帰還困難の看板を見ていた目には不思議な光景として映るのは仕方ないが、駐車場の空間線量を測れば0.12μSv/hある。この数値をどう受け取れば良いのか。

コロナ対策が神経質なほどに行われていた”道の駅”で昼食をとり、さらに東へ進む。海に近づいた辺りから見渡す限り荒地が広がり、一見して津波の影響が残されたままだとわかる。途中、草の中に四角い石が散乱する場所があり、車を降りて確かめるとそれは墓石であった。どうやらその辺りはかつて広範囲に渡り墓地があった場所であり、津波で流された墓石がそのまま放置されているらしい。避難解除されたにも関わらずこの場所は9年間手つかずのままであり、先ほどの賑わいと同じ町であるとはとても思えなかった。草間に見え隠れする無数の墓石は、朽ちた民家以上にこの地が人の暮らしと切り離された場所であることを物語っていた。


そこから海沿いに南下していく途中、荒地の中にポツンと佇む請戸小学校を見つける。沿岸から約500メートルしか離れてないこの小学校は津波で甚大な被害を受けるが、児童77人全員が無事に避難できたことで知られている。来年には震災遺構として公開される予定になっており、今もなお当時のままに津波の恐ろしさを伝えるのに十分な姿を留めていた。津波の恐ろしさはこうしてダイレクトに眼に訴えることが出来る。


請戸小学校の傍に車を止め、徒歩で海へ向かう。そこには震災後に作られた7メートルを超える高さの防波堤が続いており、その巨大なコンクリートの丘を登れば、その向こうには荒地と対を成すように海が広がっていた。かつて石牟礼道子さんが「コンクリートは大地を窒息させる」と嘆いていたのを思い出す。窒息するのは土であり、海であり、そこにある生態系であり、我々人間もそれは同様のはずである。遠くに福島第一原発の煙突が霞んで見えた。


双葉町

浪江町を南下し双葉町へ入る。双葉町は一部を除きほぼ全域が帰還困難区域のため、人影を見ることはまずないはずだが、無人の更地の中にいきなり巨大な建築物が現れた。光を反射し輝く外観はまだ建てられたばかりである事を示している。後に知る事だが、そのハコモノこそ翌日に開館を控えた「原子力災害伝承館」であった。帰還困難区域とは「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域」のことであるが、その区域の中に除染した部分を作り「原子力災害伝承館」は建てられたのである。なぜこの時期に帰還困難区域である双葉町内に建てられたのか、今以て収束しない原発事故の何を伝承するというのか、疑問は膨らむばかりである。

因みに、日本が年間積算線量20ミリシーベルトを基準にしているのに対し、チェルノブイル法では5ミリシーベル以上で移住の権利が与えられることになっている。


6号線に入り、双葉町を南下する。6号線を行き交う車は多く、この地域を南北に繋ぐ重要な交通路であることがわかる。ただし、車外に長時間出ることや、バイクでの通行は禁じられているらしい。6号線から右折し、双葉町駅前へ向かう。今年の3月に常磐線は全て開通し、6号線同様に南北を繋ぐ重要な交通手段となっている(と思う)が、双葉町、大熊町、富岡町の三つの町は今も一部を除き帰還困難区域であり、駅を利用する人はまず居ないはずである。ところが、双葉町駅前で小学生らしき子供が二人並び、何かの撮影が行われているのだった。朽ちた無人の街の中心でたたずむ二人の子供の姿は私が知る日常とはあまりにも乖離した光景だった。

私たちは駅近くの空き地に車を止め、あたりを少し散策したが、雑草が伸びきった民家の周りはひっそりと静まり返り、生きものの気配は無かった。




「地図から消される町」

東京に戻り、自分が見てきたものと照らし合わせるような気持ちで、ジャーナリスト青木美希さんの「地図から消される町」(講談社現代新書)を読む。事故当時から現在に至るまで、現地で何が起こり、被災し避難した人々、作業に従事した人達は何に苦しめられてきたのか、原発事故をめぐるこの社会の矛盾を改めて知る事が出来る本である。


福島原発では、未だにデブリは一つも見つかっておらず回収の目処は立っていない。使用済み燃料棒は1000本以上が残されたままで、汚染水は日毎に増している。そして除染土は全国での再利用が決まってしまった。明らかなのは、私たちは今もなお原発事故の影響下にあり、その”根本的問題”は解決されてはいないという事である。