早いもので、2019年もすでに3月である。
そして今日、3月10日は東京大空襲があった日。午前0時7分から始まったとされるので、74年前の今頃(現在午前1時過ぎ)は、この深川~木場界隈は間違いなく火の海となっていたであろう。一晩で10万人以上の死者を出したと言われる惨事だが、この空襲を記録し伝える事柄は極めて少ない。現在東京で暮らす私たちのどれほどの人がこの日に思いを寄せることができるだろうか。(敗戦直後、GHQは”占領”を示すものはあらゆるメディアから徹底して排除させた。映画監督山本嘉次郎は手記の中で、焼け跡や闇市、GHQ関連の建物等が写ってしまうと全てカットされたと嘆いている。)
堀田善衛は”方丈記私記”の中で、目黒区洗足から見た空襲の様子を書き綴っている。
「巨大な魚類に似たB29機は、くりかえしまきかえし、超低空を、立ちのぼる火焔の只中へゆっくりと泳ぎ込んで行くかに見上げられ、終始私は、火の中を泳ぐ鮫か鱶の類いの巨大魚を連想していた。憎しみの感情などは、すでにまったくなかった。感情の、一種の真空状態が、そこにあった。」
堀田の言う”感情の真空状態”とは何であろう。
当時堀田が住んでいた目黒区あたりはこの日の空襲を免れていたが、深川に住む親しい女性が炎の中で焼け死ぬ姿を想像しつつも「死ぬとしてもそれは他者であって自分ではないという事実」の前では何物も役には立たないことを実感する。「人間は他の人間の不幸についてなんの責任も取れぬ存在物である」と痛感した時の堀田の心境とはいったいいかなるものだったのか。
そんな堀田の脳裏に浮かんだのが方丈記の一節であり、それを契機として方丈記に傾倒して行くことになる。「感情の真空状態」から「身動きもならぬ」堀田は、方丈記の中にそこから抜け出す術を見出したのだろうか。3.11以降、多くの人に方丈記が読まれていると言う事実は、そこに共通する理由があるからなのかも知れない。
姜信子さんは著書「声」の中で近代によって「詩(声)が失われた」と記述している。おそらく”声”とは深く自然と風土に根ざした場所から生まれたものを指すのだろう、だとすれば方丈記の中にそのようなもの、あるいはそのような断片があったとしても不思議ではない。度重なる天災によって育まれたのは知恵であり、技術であり、そして思想であり、それは様々な形で日々の暮らしの中に活かされていたに違いない。そこには失われる前の”声”があったに違いない。
2011年3月11日。あの日を境に、この国では多くの問題と矛盾が露呈したにも関わらず、人々は相も変わらず戦後に作られた”幻想”を追い続けるばかりである。この国では千年、万年に渡って徐々に失われ続けてきた「声」を取り戻すことは、もうできないのかも知れない。
追記
A・ソクーロフは映画「太陽」の中で堀田の記述に極めて近い絵、B29を巨大な魚、焼夷弾を小魚として描いている。その光景は、禍々しくも美しく、”現実離れした”、”異様な光景”であった。そしてその時自分が味わったのは、世界から拒絶されたような、どこかに落ちてしまったような感覚、堀田の言う”感情の真空状態”とは別ものであろうが、その時に感じた言いようも無い孤独感のようなものが、どこかで繋がっているように思えてならない。