2020年8月15日土曜日

敗戦の日

8月。この時期になると思い出す情景の一つに父の姿がある。

学校の教諭をしていた父は、夏休みになると”零戦”や”大和”の模型作りに熱中していた。完成した模型を眺めながら「零戦に乗りたかった」「予科練に受かっていれば」と呟くのを幾度か聞いた記憶があるが、当時の幼い私はその言葉の意味を解することなく、父がいつも家にいる夏休みをほんの少し、嬉しく思ったぐらいのものだった。


20歳で敗戦を迎えた父とその家族(祖父、祖母、父、叔父、叔母二人)は、祖父の故郷である岐阜県の飛騨へ疎開するまで、東京の荏原区(現在の品川区)で生活していた。(5月の空襲でその家も焼失している)

長男だった父は、16歳で恵比寿の海軍技術研究所に勤めることになる。そして翌年、海軍飛行予科練習生に志願するが、体重が足らず不合格となる。

父の年齢と日本の歩みを重ねてみると、満州事変が6歳、2・26事件が11歳、翌12歳で盧溝橋事件があり、同年日中戦争が始まり、16歳で太平洋戦争開戦、20歳で敗戦となる。父は敗戦までの少年期~青年期のもっとも多感な時期を軍国主義の下で育ったことになる。それが若者にどのような影響を与えたのか、今となっては想像することしかできないが、それ以上に注視したいのが敗戦後日本が民主主義によって180度方向転換した現実を、そんな若者たちはどう受け入れていったのかということである。


落語家、川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)の噺に「ガーコン」というネタがある。開戦直後の軍歌はメジャー調だったものが、負け戦が続くとマイナー調に暗くなっていく、やがて日本は敗戦した途端に”ひっくり返り”軍歌は禁止、ジャズばかりが流れるようになったというものである。川柳川柳は敗戦を14歳で迎えている。父より6歳年下の川柳でさえ”ひっくり返り”にどれほどの違和感を感じたのか、この噺の内容からも想像できる。

戦後の大人達は、自らの過ちを省みることも十分に出来ぬまま、何の説明もされない若者たちはただただ置き去りにされたようなものではなかったろうか。純粋であればあるほどに、正体の知れない喪失感に苛まれ、苦しんだのではないだろうか。当時の父の日記を捲ると「日本は軍国主義から民主主義の国に変わったのだ、我々も生まれ変わったのだ」と”新しい時代”を称賛しているかのように見える。頭ではそう理解していたことだろう、日記なのだから尚更だとも思うが、しかし一方で戦時中に抱いた憧れを持ち続けて生きてきたことも事実である。

”ひっくり返り”のジレンマから逃れるために、多くの者たちは戦後復興から経済成長に没頭し、がむしゃらに生きることで過去を忘れたふりをしたかったのかもしれない。


かつて、父を遠くからぼんやり見ていた私も、今では十分に年を重ねた大人であり、今のこの国の有様を作り上げた一人であるわけだ。

そんな一人として自省を込め、少しでも若い人の未来の指針になるものを残したいと思う。


アニメーション「カワウソ」制作中    

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