2021年10月29日金曜日

石井妙子著「魂を撮ろう」

  映画「MINAMATA」を観た後、石井妙子著「魂を撮ろう」を読む。改めてチッソの歴史と水俣病について簡単にまとめておく。(ユージン・スミスについては別の機会で書きたいと思う)

水俣病の歴史は大きく二つの時代に分けることができるのではないか。
1 ”奇病“として発症が記録される1940年代から病名が”水俣病”として認定される1957年を経て、原因がチッソ工場の廃水(有機水銀)によるものだと断定される1968年まで。
2 1968年前後から、特に1973年の熊本地裁判決を契機に”水俣病”患者とその家族がチッソと国に対する数々の訴訟を起こし、その責任と保証を求めている現在まで。(水俣病認定問題を含む)

この60年以上に渡る時間を見れば、”水俣病”をめぐる問題は単に高度成長期における公害問題に収まる話ではないということがわかる。チッソの歴史は明治40年の”日本カーバイド商会”から始まるが、水俣工場が誕生するのは大正7年(1918年)であり(当時はカーバイドを原料とする化学肥料を生産)、第一次世界大戦による戦争特需を経て、1920年代以降には朝鮮半島に東アジア最大の水豊(スブン)ダムを建設し多くの化学工場を持っていた。チッソは太平洋戦争敗戦まで日本の国力を担う重要な企業の一つとして存在しており、戦後は経済成長を目指す政府の後ろ盾の下で躍進したといえる。特に1960年に始まる池田内閣の「所得倍増計画」の下、重化学業は大きく発展しプラスチックの量産が始まり、さらに1964年に東京オリンピックが開催、日本のOECD参加など、一気に経済大国へと成長しつつある時代にあった。そんな最中、政府が水俣病を「公害病」として認めるのは1968年(佐藤内閣)になってからである。明治以降から現在に至るまでのこの国の歴史に、チッソはぴったりと重なっているのである。

この国が求めた「豊さ」とは果たして何であったろうか、近代化を迎え生産性と合理性を優先した結果、誰かが常に”犠牲”になることを許してしまう社会を作ってしまったのではないか。確かにこの社会構造自体が”犠牲”を見えにくくしている部分もあるだろう。そして意図的に隠蔽された”犠牲”もあるだろう、しかし私たちは本当に知らなかったのだろうか、目先の「豊さ」だけを見ることで知らないふりを続けてきたとは言えないか。
社会のルール、システムを作るのは、政治やテクノロジーの力と言えるだろう。それらを動かすきっかけとなるのは人の理念であり、そこに働きかけることができるのが芸術や文化の力なのではないだろうか。為政者や企業を糾弾することは重要な事ではある、しかしそれだけでは”犠牲のシステム”を変えることはできないのではないか。

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映画「MINAMATA」について、事実と異なる内容故に批判している意見を散見する。確かに事実と比べれば疑問に感じる点は多く、見終わった後にすっきりしない部分も残るのは確かだ。それでも自分はこの映画をその点だけで批判する必要は無いと思っている。映画は虚構で良いのだ、映画の目的は一つでないのだから。

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