今年75周年を迎えるベルリン国際映画祭短編部門では、"anniversary short film programme"と称して過去の映画祭に選出された短編映画6本が上映されるが、その一つに拙作”Vita Lakamaya(ウィータ・ラカーマヤ)"が選ばれている。これは2016年にベルリンで公開された作品だが、7分40秒を縦スクロール1ショットで描いていること、ドローイングの密度を上げるためにphotoshopのブラシサイズを1pixelに設定したハッチングで描いていることなどが特徴と言える。しかしそれらはアニメーションの技術的な側面にアプローチするためのアイディアに過ぎない。
当時の日本は東日本大震災から数年が過ぎ、東京ではすでに福島原発事故を忘れてしまったかのような風潮が満ち始めていた。それに違和感を感じる人も少なくはなかったとは思うが、マスメディの多くから「原発事故」という言葉が消えたことで、人々は3.11当時の不安を過去の記憶へ閉じ込めてしまったかのようだった。
「生」「死」「自然」そして「近代」、それらの言葉から生まれるイメージを包括し描くことが当時の自分にとって一つの答えを導き出すきっかけになるように思われた。人はいつの頃からか自分の体が”自然の一部”に過ぎないことを忘れ、周囲の環境を制御し、支配することでしか身体を保つことができないと錯覚してしまったのではないか。自然とは本来”じねん”であり、「自ら然る」ことを言う。自身の身体が自然の一部であるという感覚。それを表現したいと思ったのかも知れない。
そんな”Vita Lakamaya”を再びベルリナーレの会場で上映されることは確かに幸運と言える。ベルリナーレに感謝する。
さて、そのベルリナーレも間も無く開幕であるが、昨年同様、あるいはそれ以上にイスラエルを巡り映画祭を取り巻く状況は緊張が高まっているようである。映画祭の内部は一様ではないのは確かだが、昨年の授賞式で「No Other Land」が受賞した際の会場の歓声と拍手は明らかに多くの参加者の”反イスラエル”を叫ぶ声を代弁していた。国際映画祭は運営サイドのみで成り立つものでは無く、そこに参加する様々な人々と作品が加わる事によって初めて成立していくものである。故にベルリナーレを国家の為政と混同してはならない、まして現在複雑な問題(矛盾)を抱えてしまっているドイツだからこそ、ベルリナーレは必要だと考えるべきではないだろうか。目に見える変革を映画祭に期待したい。
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