2021年1月4日月曜日

2021

「牛の飲む水は乳となり、蛇の飲む水は毒となる」

知識や技術はその使い方次第で毒にも薬にもなるもの。人類がこれまで生み出したテクノロジーは、果たして乳だけであったろうか。東日本大震災・福島原発事故から10年目を迎える今、改めて考えてみたい。


 俵屋宗達の牛図を拝借。本来双福の絵のうち一枚を加工。





2020年10月9日金曜日

福島とフクシマ

9月19日に福島県双葉郡を訪れた。3.11の原発事故以降、現在も約7万人の避難者を出しているこの地域が9年経った今、どうなっているのか、ただ、自分の目で見ておきたいという想いからだった。

郡山市に住む友人W氏宅から、彼の車で288号線を東へ向かう。朝からどんよりとした曇り空の下、ありふれた田舎町の風景の中を車は進んでいく。しばらくして大熊町へ入った辺りから「帰還困難区域につき通行制限中」の看板が目立つようになり、さらに進めば山間の空き地に積まれた黒いフレコンパックをちらりほらりと見かけるようになる。車を降り、空間線量を測ると0.21μSv/h。W氏宅の数値の約3倍である。



浪江町

288号線は双葉町に入った辺りでバリケードによって通行止めになっていたため直進できず、35号線を北上し浪江町に入る。さらに35号線を右折し114号に入り東へ進んでいくと街は急変し一気に賑わいを見せるようになる。浪江町は2017年に一部の地域が避難解除されており、浪江町役場前の”道の駅”には多くの車が停車し、(土曜日ということもあるのだろう)そこはたくさんの家族連れで溢れていた。数十分前には帰還困難の看板を見ていた目には不思議な光景として映るのは仕方ないが、駐車場の空間線量を測れば0.12μSv/hある。この数値をどう受け取れば良いのか。

コロナ対策が神経質なほどに行われていた”道の駅”で昼食をとり、さらに東へ進む。海に近づいた辺りから見渡す限り荒地が広がり、一見して津波の影響が残されたままだとわかる。途中、草の中に四角い石が散乱する場所があり、車を降りて確かめるとそれは墓石であった。どうやらその辺りはかつて広範囲に渡り墓地があった場所であり、津波で流された墓石がそのまま放置されているらしい。避難解除されたにも関わらずこの場所は9年間手つかずのままであり、先ほどの賑わいと同じ町であるとはとても思えなかった。草間に見え隠れする無数の墓石は、朽ちた民家以上にこの地が人の暮らしと切り離された場所であることを物語っていた。


そこから海沿いに南下していく途中、荒地の中にポツンと佇む請戸小学校を見つける。沿岸から約500メートルしか離れてないこの小学校は津波で甚大な被害を受けるが、児童77人全員が無事に避難できたことで知られている。来年には震災遺構として公開される予定になっており、今もなお当時のままに津波の恐ろしさを伝えるのに十分な姿を留めていた。津波の恐ろしさはこうしてダイレクトに眼に訴えることが出来る。


請戸小学校の傍に車を止め、徒歩で海へ向かう。そこには震災後に作られた7メートルを超える高さの防波堤が続いており、その巨大なコンクリートの丘を登れば、その向こうには荒地と対を成すように海が広がっていた。かつて石牟礼道子さんが「コンクリートは大地を窒息させる」と嘆いていたのを思い出す。窒息するのは土であり、海であり、そこにある生態系であり、我々人間もそれは同様のはずである。遠くに福島第一原発の煙突が霞んで見えた。


双葉町

浪江町を南下し双葉町へ入る。双葉町は一部を除きほぼ全域が帰還困難区域のため、人影を見ることはまずないはずだが、無人の更地の中にいきなり巨大な建築物が現れた。光を反射し輝く外観はまだ建てられたばかりである事を示している。後に知る事だが、そのハコモノこそ翌日に開館を控えた「原子力災害伝承館」であった。帰還困難区域とは「5年間を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域」のことであるが、その区域の中に除染した部分を作り「原子力災害伝承館」は建てられたのである。なぜこの時期に帰還困難区域である双葉町内に建てられたのか、今以て収束しない原発事故の何を伝承するというのか、疑問は膨らむばかりである。

因みに、日本が年間積算線量20ミリシーベルトを基準にしているのに対し、チェルノブイル法では5ミリシーベル以上で移住の権利が与えられることになっている。


6号線に入り、双葉町を南下する。6号線を行き交う車は多く、この地域を南北に繋ぐ重要な交通路であることがわかる。ただし、車外に長時間出ることや、バイクでの通行は禁じられているらしい。6号線から右折し、双葉町駅前へ向かう。今年の3月に常磐線は全て開通し、6号線同様に南北を繋ぐ重要な交通手段となっている(と思う)が、双葉町、大熊町、富岡町の三つの町は今も一部を除き帰還困難区域であり、駅を利用する人はまず居ないはずである。ところが、双葉町駅前で小学生らしき子供が二人並び、何かの撮影が行われているのだった。朽ちた無人の街の中心でたたずむ二人の子供の姿は私が知る日常とはあまりにも乖離した光景だった。

私たちは駅近くの空き地に車を止め、あたりを少し散策したが、雑草が伸びきった民家の周りはひっそりと静まり返り、生きものの気配は無かった。




「地図から消される町」

東京に戻り、自分が見てきたものと照らし合わせるような気持ちで、ジャーナリスト青木美希さんの「地図から消される町」(講談社現代新書)を読む。事故当時から現在に至るまで、現地で何が起こり、被災し避難した人々、作業に従事した人達は何に苦しめられてきたのか、原発事故をめぐるこの社会の矛盾を改めて知る事が出来る本である。


福島原発では、未だにデブリは一つも見つかっておらず回収の目処は立っていない。使用済み燃料棒は1000本以上が残されたままで、汚染水は日毎に増している。そして除染土は全国での再利用が決まってしまった。明らかなのは、私たちは今もなお原発事故の影響下にあり、その”根本的問題”は解決されてはいないという事である。



2020年8月18日火曜日

アニメーション・カワウソ制作中

 駄菓子屋の前で、

 ”正面を見つめて立つ”少女とニホンカワウソ。

アニメーション「カワウソ」制作中

2020年8月15日土曜日

敗戦の日

8月。この時期になると思い出す情景の一つに父の姿がある。

学校の教諭をしていた父は、夏休みになると”零戦”や”大和”の模型作りに熱中していた。完成した模型を眺めながら「零戦に乗りたかった」「予科練に受かっていれば」と呟くのを幾度か聞いた記憶があるが、当時の幼い私はその言葉の意味を解することなく、父がいつも家にいる夏休みをほんの少し、嬉しく思ったぐらいのものだった。


20歳で敗戦を迎えた父とその家族(祖父、祖母、父、叔父、叔母二人)は、祖父の故郷である岐阜県の飛騨へ疎開するまで、東京の荏原区(現在の品川区)で生活していた。(5月の空襲でその家も焼失している)

長男だった父は、16歳で恵比寿の海軍技術研究所に勤めることになる。そして翌年、海軍飛行予科練習生に志願するが、体重が足らず不合格となる。

父の年齢と日本の歩みを重ねてみると、満州事変が6歳、2・26事件が11歳、翌12歳で盧溝橋事件があり、同年日中戦争が始まり、16歳で太平洋戦争開戦、20歳で敗戦となる。父は敗戦までの少年期~青年期のもっとも多感な時期を軍国主義の下で育ったことになる。それが若者にどのような影響を与えたのか、今となっては想像することしかできないが、それ以上に注視したいのが敗戦後日本が民主主義によって180度方向転換した現実を、そんな若者たちはどう受け入れていったのかということである。


落語家、川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)の噺に「ガーコン」というネタがある。開戦直後の軍歌はメジャー調だったものが、負け戦が続くとマイナー調に暗くなっていく、やがて日本は敗戦した途端に”ひっくり返り”軍歌は禁止、ジャズばかりが流れるようになったというものである。川柳川柳は敗戦を14歳で迎えている。父より6歳年下の川柳でさえ”ひっくり返り”にどれほどの違和感を感じたのか、この噺の内容からも想像できる。

戦後の大人達は、自らが辿った道を省みることも十分に出来ぬまま、何の説明もされない若者たちはただただ置き去りにされたようなものではなかったろうか。純粋であればあるほどに、正体の知れない喪失感に苛まれ、苦しんだのではないだろうか。当時の父の日記を捲ると「日本は軍国主義から民主主義の国に変わったのだ、我々も生まれ変わったのだ」と”新しい時代”を称賛しているかのように見える。頭ではそう理解していたことだろう、日記なのだから尚更だとも思うが、しかし一方で戦時中に抱いた憧れを持ち続けて生きてきたことも事実である。

”ひっくり返り”のジレンマから逃れるために、多くの者たちは戦後復興から経済成長に没頭し、がむしゃらに生きることで過去を忘れたふりをしたかったのかもしれない。


かつて、父を遠くからぼんやり見ていた私も、今では十分に年を重ねた大人であり、今のこの国の有様を作り上げた一人であるわけだ。

そんな一人として自省を込め、少しでも若い人の未来の指針になるものを残したいと思う。


アニメーション「カワウソ」制作中    

2020年5月13日水曜日

文学が語る言葉とは


昨日TVで放映された多和田葉子さんのインタビューを一部文字起こし。
”物語”を作る上で非常に重要なことだと思う。

今、文学が語る言葉とは
「コロナウイルスに関しては自然科学がすごく重要じゃないですか、でも、自然科学というのは個々のファクトについてしか語ることができないんですよね。
私たちはそこから「自分がどういういうふうに生きていきたいのか」を引き出すことはできないじゃないですか。そういういくつもの事実を紡ぎ合わせて一つの物語を作っていく。
でも、そのときにフェイクになってはいけない。これがね、一言では説明できない、非常に難しい問題だと思うんですけど、それを承知の上ではっきり言ってしまうと”フェイクではなくてフィクションを作る”これは人間が絶対必要とするものだと思う。
もし文学、良いフィクションがなければ、人は変なフィクションに、フィクションとも言えないような変な物語に、みんな踊らされてしまう。または、みんな騙されてしまう。」

2020年3月11日水曜日

カワウソ

現在制作中の短編アニメーション "カワウソ" 。 長い時間をかけて制作しているが、これがどの様な形で終わるのか、自分にも未だに分かっていない。ただ言い方を変えれば非常に贅沢な時間の使い方をした仕事であり、現状を受け入れつつ、これをコツコツと作り続けるしかないと思っている。
今日は9年目の日。あれからこの国はどれほど変われたのだろうか。

アニメーション「カワウソ」制作中           

2020年1月3日金曜日

2020年



昨年から年賀状は出さないことにしているが、それでも幾らか送られてくるものなので、メールの返信用にこれを作ってみた。鼠の絵は若冲の絵の一部をイラレで自動トレースしたもの。若冲は見て描く”写生”画家としての側面がよく知られているが、このような可愛らしい絵も描いている。下が元絵。(伊藤若冲:鼠婚礼図)


さて、今年はどんな年になるのだろうか。社会はこのままズルズルと劣化していくようにしか思えないのだが、社会が劣悪な状況になればなるほど、傑作と呼ばれる芸術作品もまた生まれている様にも見える。そこに芸術本来の役割があるのであれば、表現者はめげることなく、未来を見据えてその役割を全うすべきだろう。
と言うか、そう思わなくてはもうやってられない。

2019年8月15日木曜日

平和の少女像


現在制作中のアニメーション「カワウソ」の一部です。この少女を通して物語が進行していきます。すでに4年も制作しているのに完成にはまだまだ遠く、鉛筆で描くという不慣れな方法を選んでしまったことを後悔し、そして自分の画力の無さを日々痛感し泣いています。バロンくんごめんなさい。
ところで、なぜ「カワウソ」で少女を描くのか、自分でもよくわかっていませんでしたが、おそらくこれが自分にとっての”平和の少女像”になるのだと思います。
ニホンカワウソが絶滅していく過程は、日本が明治以降、近代国家として戦後の高度成長期までを歩んだ歴史と重なります。その陰で数々の戦争があり、失った環境と命があり、滅びた種がありました。
その失われた象徴としてカワウソを描き、それを見つめる少女の目が、わたしたちが過去の歴史に向き合うための視座になるのかも知れないと思っています。何れにせよ、自国の歴史と向き合い議論する事もできないようでは他者への寛容さなど生まれないでしょうし、多様性を受け入れることも育てることも満足にはできないでしょう。

さて、今日8月15日は日本では敗戦の日であり、韓国では光復節、35年に渡る日本植民地からの解放の日でした。隣人との間で深めるのは憎悪ではなく、教養と理解でありたいものです。


2019年7月17日水曜日

「誰が星の王子さまを殺したのか」

先日、83歳になる母親に”れいわ新撰組”の街頭演説を見せたところ「みんないいこと言うねえ、テレビで放送すればいいのにねえ」と。しかしそれは21日が終わるまでは無いだろう。
写真はそんな”れいわ新撰組”から立候補している安冨あゆみさんの著書「誰が星の王子さまを殺したのか」。サン=テグジュペリの「星の王子さま」を安冨流に解釈したユニークな本だが、名言とされる「大切なものは目には見えない」を真理でもなんでも無い危険な言葉と言い放ち、キツネの言う「飼いならす」はセカンドハラスメントと断言するあたり、この物語の印象が145度ほど変わってしまう、なかなか興味深い本である。



「星の王子さま」に限らず、私たちは難解な作品に出会った時、批評家や多くの人の意見を参考に読み解こうとするが、いつの間にやらそこにある他者の言葉を理解することに終始し、それでわかったつもりになってることも少なく無いのかも知れない。果たして自分の判断は自分のものであったろうか、こんな本を前にするとそんなことを考えてしまうものである。

私たちが”政治”に対して持つイメージも、多くの既存の言葉に置き換えている部分が強いのかもしれない。だとすれば、今回の参院選が非常に面白いと感じるのは、そんな既存のイメージを払拭する選挙活動をする候補者がいるからだろう。安冨さんもその一人だが、彼らに共通しているのは単に政策を訴えるだけでなく、私たち一人一人に向けて意識改革を促し、議席を取ること以上に各々の意見を広めることを目的にしていること。
この選挙の結果がどうあれ、今後様々な形で彼らが影響を残すことを期待したい。

2019年3月10日日曜日

3.10 から 3.11


早いもので、2019年もすでに3月である。
そして今日、3月10日は東京大空襲があった日。午前0時7分から始まったとされるので、74年前の今頃(現在午前1時過ぎ)は、この深川~木場界隈は間違いなく火の海となっていたであろう。一晩で10万人以上の死者を出したと言われる惨事だが、この空襲を記録し伝える事柄は極めて少ない。現在東京で暮らす私たちのどれほどの人がこの日に思いを寄せることができるだろうか。(敗戦直後、GHQは”占領”を示すものはあらゆるメディアから徹底して排除させた。映画監督山本嘉次郎は手記の中で、焼け跡や闇市、GHQ関連の建物等が写ってしまうと全てカットされたと嘆いている。)

堀田善衛は”方丈記私記”の中で、目黒区洗足から見た空襲の様子を書き綴っている。
「巨大な魚類に似たB29機は、くりかえしまきかえし、超低空を、立ちのぼる火焔の只中へゆっくりと泳ぎ込んで行くかに見上げられ、終始私は、火の中を泳ぐ鮫か鱶の類いの巨大魚を連想していた。憎しみの感情などは、すでにまったくなかった。感情の、一種の真空状態が、そこにあった。」
堀田の言う”感情の真空状態”とは何であろう。
当時堀田が住んでいた目黒区あたりはこの日の空襲を免れていたが、深川に住む親しい女性が炎の中で焼け死ぬ姿を想像しつつも「死ぬとしてもそれは他者であって自分ではないという事実」の前では何物も役には立たないことを実感する。「人間は他の人間の不幸についてなんの責任も取れぬ存在物である」と痛感した時の堀田の心境とはいったいいかなるものだったのか。
そんな堀田の脳裏に浮かんだのが方丈記の一節であり、それを契機として方丈記に傾倒して行くことになる。「感情の真空状態」から「身動きもならぬ」堀田は、方丈記の中にそこから抜け出す術を見出したのだろうか。3.11以降、多くの人に方丈記が読まれていると言う事実は、そこに共通する理由があるからなのかも知れない。

姜信子さんは著書「声」の中で近代によって「詩(声)が失われた」と記述している。おそらく”声”とは深く自然と風土に根ざした場所から生まれたものを指すのだろう、だとすれば方丈記の中にそのようなもの、あるいはそのような断片があったとしても不思議ではない。度重なる天災によって育まれたのは知恵であり、技術であり、そして思想であり、それは様々な形で日々の暮らしの中に活かされていたに違いない。そこには失われる前の”声”があったに違いない。

2011年3月11日。あの日を境に、この国では多くの問題と矛盾が露呈したにも関わらず、人々は相も変わらず戦後に作られた”幻想”を追い続けるばかりである。この国では千年、万年に渡って徐々に失われ続けてきた「声」を取り戻すことは、もうできないのかも知れない。


追記
A・ソクーロフは映画「太陽」の中で堀田の記述に極めて近い絵、B29を巨大な魚、焼夷弾を小魚として描いている。その光景は、禍々しくも美しく、”現実離れした”、”異様な光景”であった。そしてその時自分が味わったのは、世界から拒絶されたような、どこかに落ちてしまったような感覚、堀田の言う”感情の真空状態”とは別ものであろうが、その時に感じた言いようも無い孤独感のようなものが、どこかで繋がっているように思えてならない。